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積極的に真似ること

見るのとやるのは大違い

 きちんと写真を学びだして6ヶ月が過ぎようとしている。主に週末の集中講義をメインに学習してきたけれど、講義を終えていくたびに「良い学びになったな」と思う。うまく説明できなが、おそらくこんな事なのかなと思う。

 今学んでいる事 学んでいる方法に即効性がなく、かつ直接的でないこと。なんでこんなことやるんだろう?と思わせる内容であること。それが自分にとって、良い学びになっている、と心底思えているのだろう。偽りなく正直にそう思う。先日の学びを備忘録として書いておこうと思う。

 「良いとされるもをよく視てください、そうするとだんだん悪いものがわかってきます」

  先生はそう言った。

 自分は何も知らないし、何もできないということに気づいてから、先生のアドバイスをすんなり聴けるようになった。一例として、この半年で有名な写真集を十冊以上購入した。今まで写真集を購入したことはほとんどなかった。高いお金を出して買っても、まったく理解できないものが多かったからだ。今でもわかっているとは言えないけれどで、先生がそいう言うなら購入してみようと、最初の1冊目を購入したのをきっかけとして、気になったことや引っかかったことがあれば無理してでも写真集を購入するスタイルが普通になってしまった。

 この数ヶ月、先生のアドバイス通りに良いと言われている写真を繰り返し、繰り返し視ることを自分に課している。好きとか、嫌いから始まり、構図や色味、プリントの質感、そしてライティング、毎回視る視点を変えて写真をよく視る。何度みかえしても、まだまだ視るべきところは山ほどある。とにかく何度も視て自分なりに吸収していくしかない。しかしそれもまた楽しい。

 先日の講義課題で、歴史的写真家の作品を参考にした写真を撮影し、プリントで提出することを求められた。自分はこの課題は、写真家がその作品を撮影するにいたった気持ちや、経緯を自分なりに追体験するために、徹底的に真似をすることが求められていると自分なりに解釈した。

 写真は、自らは語り出す事はないし、動く事もない。ゆえに一見して意味がわからないことも多い。では、綺麗なものを綺麗に写すだけが良い写真なのだろうか。いや、それは違う。なら、何をもって良い写真となるのか?その答えは簡単ではないが、写真は作者の想い、その時代背景、社会情勢、時代の雰囲気、技術的背景など、その写真の像だけではない重要な要素をも含んでひとつの作品となるものだ。そのような付加情報を理解したうえで写真を視るのと、そうでないのでは、まったく評価が違ってくる。すべてを含んで写真を読み解けるようになりたいものだ。

 時間と労力をかけて制作する課題だから、自分が選んだ写真家の背景を理解することも含めて作品を徹底的に模倣しようと決めた。課題にあたっては、3名の写真家を選んだ。まず、真似するためには作品をよく視なければならない。構図に始まり、プリントの質感にいたるまで、オリジナルに近くなるまで何度も試行錯誤を繰り返した。自分の写真とオリジナルのどこが違うのか。オリジナルのどの部分がオリジナルたらしめているのか。試行錯誤の中で、ほんの些細なことが、オリジナルが、オリジナルとして成立している重要な要素となっていることが、なんとなくわかってきた。所詮、素人の真似事でしかないけれど、自分なりに普段見落としてしまいそうな、ささいではあるが重要なことに気づけた気がする。この感覚を今後も継続して、地道に続けていけば何か得られるものがある、そう実感を得る事ができた。

 

 小さな気づき、何かを得られそうな感覚を、毎回得る事ができている。

 一見、どうでも良いような時間、経験を通して学びがある。実生活の何の役に立つのか?

と思わなくもないが、こんなやりとりが自分にとって生きている喜びだと思える。

 些細だけれど、大切な気づきを得られる現在の環境に感謝しつつ地道に写真術を探求していきたい。