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写真を撮る目的

変化するモチベーション

 カメラ操作を覚えて撮ることが楽しい時期から、撮った写真を褒められて自信をつけはじめた頃には、何の迷いもなく毎日どんどん写真を撮影することができた。自分には才能があるんじゃないか?とも思いはじめ、自分が撮影する写真は他とは違って特別なものであるかのようにさえ感じていたと思う。

 そんな夢のような時間もアッという間に過ぎ去って、自分が撮る意味は何なのだろう?
他の人の写真と何が違うのだろう? と、最初は小さかった疑問が次第に大きなものへ無視できないものへと変化しながら、シャッターを押そうとする自分にのしかかってくるようになっていった。このような経験は多くの写真愛好家が体験するものだと思うが、この類の疑問がなければ真に写真を撮る醍醐味を経験することはできないと思っている。

写真とはある意味大変安易なもので、シャッターを押しさえすればあとはカメラがやってくれる。一般的に芸術は、初期段階では地道な鍛錬を必要とする。ピアノであれば楽譜を覚え、運指を鍛錬する必要があるし、テニスであればグリップを毎回確認し素振りをしてフォームを覚える。
一方、特に最新のデジタルカメラは初心者がカメラを手にしたその時から、露出やピントをフルオートで撮影することが可能だ。もちろんマニュアルでわたしは撮影しているし、構図やシャッターのタイミングはわたしならではのセンスや技量が詰まっている!と言いたい気持ちはわかります。
たしかにその通りなのですが、逆にこれまでカメラに触れたこともない初心者がフルオートで素直な気持ちで撮影した写真のほうが、純粋に良い写真・気になる写真・自分が好きな写真になることも少なくないのです。それほどに最近のカメラは驚くほどの性能が搭載されている訳です。
そして初心者だった時の純粋な感動は次第に薄れていき、自分も芸術に関わっているという気持ちは幻想だったのか?と悩み始めるのです。


私が撮影した写真は、いったいカメラがしたことなのか? 自分がやったことなのか?


 写真は人を救済するような側面があり、様々な挫折を経験した人や、世間とうまくやっていけない人など、巡り巡って写真に行き着く人も少なくない。盛んにコスパといわれる時代に、手っ取り早く芸術に関われた気になれる写真(カメラ)が、そういった人達を救済しているのかもしれない。今や想像を絶するような数の人々が自分の写真に自信をもっているようにさえ感じる。

写真に何を求めるか?は人それぞれだが、ひとつ注意しなくてはいけないことは、「カメラがやったことを自分がやったことのように勘違いしないこと」だと思う。超高機能・高性能を有した精密機械であるカメラが行ったことを、安易に自分の手柄にしないという心構えが大事だと思う。
遥か昔の湿板写真の時代なら写真=化学知識であったし、かつてのフィルム時代ならば露出計算、ピント合わせ、フィルム・印画紙の選択、暗室作業など、撮影者に必要とされる知識経験が数多く存在し、写真には職人と言われて当然の専門技術が必要であった。しかしデジタル技術の進化によってそんな専門知識・職人技が必要なくなり、誰でも簡単にかつては絶賛されたような写真を撮ることが可能になった。だからこそ自分の写真と対話をすることもなしに、簡単容易に自分の手柄にしていてはすぐに壁にぶち当たることになるだろう。

自分自身と向き合うこともなしに、さもわかっているように写真を語ってはいけない。
現代の写真とは自分自身との対話の中にこそ本質があり、対話作業を通して出てきた写真こそ

他の誰でもない自分の写真と確信をもって言い切れる写真になるのだと思う。
その為には自分の写真を見返すことが大切だ。
とにかく撮る。そして見返す。
なんでこんな写真を撮ったのか?なぜいつも自分はこういう写真を撮っているのか?
これは写真家の〇〇さんの写真風ではないか。。インスタ映えする写真が本当に撮りたい写真なのか?
自分の写真をいつも丁寧に見返していれば、自然と自分との対話をすることになるのだ。。

 さて、巷には首からカメラをぶら下げて、いつでもパシャパシャとシャッターを押す人がいる。撮影することを特別に許可されたかのように人にカメラを向け、街にカメラを向け、ひたすらシャッターを押す。時折不思議に思うのはあの大量に撮影したデーターは何のための写真なのだろう?
彼らは大量に撮影した写真を1枚1枚きちんと見直しているのだろうか?写真を見返すとき、撮影時の光景を思い出せているのだろうか?シャッターを押したことに満足し、撮影したことだけに満足していないだろうか?

自分と対話をしながら写真を撮るとは、
何のために写真を撮るのか?
撮った写真をどうしたいのか?

を考える事であると思う。自分は何に興味があり、撮影した写真を用いて何を成し遂げたいのか?
常に自問自答している。
写真をはじめて数十年が経ち、私はただ楽しく写真を撮っている訳には行かなくなった。
他の人が撮る奇麗な写真と、自分の写真に何か違いはあるのか?
あの人の写真が良くて自分の写真はなぜダメなのか?
いったい何が違うのか?そもそも違いはあるのか?

 写真を芸術的側面から勉強するようになって、私の写真に対する考え方は180°変化した。

何が写っているか?(この写真は〇〇ですか?奇麗ですね!)
何を撮っているか?(普段何を撮っているんですか?

から

写真で何をしているのか?(私の写真を通して社会に疑問を投げかけたい)
何を表現しているのか? (私は〇〇〇に問題意識がありそれを写真で表現しています)

芸術的観点からの写真は時に、被写体から解放され、撮影行為および撮影過程さえ作品化する。
例えば
撮影/現像した写真をプリントアウトして土に埋める、映画の上映時間だけシャッターを開け続ける、毎日同じ時刻にシャッターを押す、カメラをホームレスに渡して1か月後にカメラを回収する など

一言で写真と言っても、写真を撮る目的は人それぞれ 
 
 結論として答えがある訳ではない。
ひと事に写真といっても写真には様々な役割がある。
表現としての写真、記録としての写真、コミュニケーションとしての写真、
収入・生業としての写真、なんだこれは?という意味がわからない現代写真、
しかしこれも列記とした写真だ。

最後にまとめるとすると、どんな写真であれ常に目的意識を持つことだ。
人生は有限だから自分が撮った写真が自分にとって意味のあるものの集積になっていなければ
日々の撮影行為が悲しすぎるのではないか。時間は戻ってこない。
過去に撮影した自分の写真を見返すとき、自分自身がワクワクするような嬉しくなるようなそんな写真を日々撮影し蓄積していきたい。

私が写真を撮る目的、それは
自分の写真を通して自己対話を継続し、人生の時間の蓄積となるような写真を撮っていきたい。