「写真」というキーワードで話しはじめても、機材の知識に話題が偏重しがちな人が多いようにいます。
そもそも実は、私もそのようなグループに属する人間です。写真とは他の芸術と異なり、機材が制作のほとんどを行ってくれるとも言うことができて、見方によっては大変安易なもの・簡単なものであるとも言えるような気がします。写真特有の即時的な描写性によって誰でも芸術家を気取れると言ったら言い過ぎでしょうか。たぶん言い過ぎです。
しかし実際にはそうではなく歴史に名を残す写真家のみならず現在活躍中の写真家たちは、ひとつの作品を形にするまで幾度となく試行錯誤を繰り返しながら、自らのイメージをいかに写真にするかを日々頭を悩ませ続けているのです。
写真を撮るためにはまずカメラが必要であることは言うまでもないのですが、現在そのフォーマットや形態によって様々なカメラが世の中に存在しています。それぞれに特徴があり金銭が許すなら全てを所有したいと思った経験が誰にでもあるのではないでしょうか。
特に最近のデジタルカメラの進化は早く、常に最新のモデルの機能や動向に興味を持つ人も少なありません。メーカーが躍起になって新機能や解像度競争に励んでいるでいる結果かもしれません。
では、機材の充実がどれほど写真の内容に関係してくるのかを考えてみようと思います。
最新モデルのカメラを手にすれば、誰しもが多くの人の心に届くような写真を撮ることができるのでしょうか?それはひとつの条件となりうると思いますが、必ずしも最新機材が写真の内容を担保してくれることはないです。やはりそこには撮影者である人間がいて、いつ・どこで・何を・どのように記録を残すのかをシャッターを切る前に判断しているのです。
現実の世界をフレームで切り取っているのは、やはり人間なのだと思います。
創作活動において本当に大切なのは機材ではなく、何を表現したいかです。
創作者それぞれの創作活動に適した機材は存在すると思いますが、逆に機材によって新たな創作意欲がわくことはあるでしょうか?言っていることが矛盾するかもしれませんが、私はあると思います。
このあたりで言いたいことを整理していきたいと思います。
カメラ機材にこだわることは悪いことではないですが、問題は機材にばかり意識がいくことかもしれません。創作活動において本当に大切なことは、撮影することであり、そして写真を見返すこととだと思います。
先日ある有名な写真家さんと著名なキュレーターさんとの対談を観にいきました。その時にその写真家さんがこのようにおっしゃっていました。
「みなさん良く写真を撮られますが、その撮った写真はどうするんですか」そしてさらに、「おそらく我々は30年前と現在とできちんと観ることのできている写真の数は変わっていない、撮られる写真が増大しただけである」とも言っていました。
これは私にとって少しショッキングな発言でした。
私を含め多くの人たちが、「写真を撮る行為・シャッターを押す行為」そのものを、写真を撮ることだと意味づけているのかもしれません。
撮ったことで安心し満足し、その後きちんと写真を見返すこともありませんし、当然プリントアウトすることなど、ほぼありません。せいぜいSNSにアップロードするくらいでしょう。
今後いかに機材が進化したとしても、きちんと写真と向き合うつもりなのであれば、自分がどのような写真を撮りたいのか? 何を表現したいのかを考え続けることが必要だと思います。
さらに、なんの為に写真を撮るのか、撮った写真をどうするのかを含め創作活動をしていくことが大事だと強く思います。
そして話を本題に戻すと、創作に適したカメラは存在します。しかしカメラは創作活動においてあくまでも道具でしかないのです。最新の機材がすべての人にとって最善ではなく、自分にとってベストな機材はもしかしたら昭和の頃のカメラかもしれません。それは創作活動する人自身が判断することですが、自分にとってベストな機材を見つけ出す努力も必要です。
以上は私の考える機材の考え方ですが、それが本当に正解なのかはわかりません。ただ私は最新の機材にすぐ乗り換える人よりも、ずっと同じ機材を使い続ける人がかっこいいと思っています。