誰でも綺麗な写真が撮れる今、写真を撮る意味
つい先日、もう何台目になるのだろう、、
動画撮影のためにマイクロフォーザーズのカメラを購入した。
外観や重量はフルサイズの一眼レフに比べれば子供のようなサイズ感。
過度な期待もなく、なんとなくカメラの機能を確認しながら試し撮りした。
「おー、」「おおー、」「わー、」
と頭の中でつぶやいた。いや実際に声にだしていたかもしれない。
見かけは小さいけれど、機能は秀逸でとても使いやすいし、動作は速いし、軽いし、
文句のつけどころがないくらいよくできている。
普段マニュアルフォーカスのレンズを使っている自分には、ピントの速さ、正確性、
なにもかもすばらしく、とにかくすごいカメラだという印象しか残らなかった。
こんなすごいカメラが出回っていて、たくさんの人が写真を撮っている。
この素晴らしいカメラを手にした喜びと同時に、
今や綺麗に撮ることは、以前よりもある意味価値を失ってきているようにも思えた。
写真というものは、必ずカメラという機械を使用して撮影される。
カメラがなければなにも始まらない。逆に言えばカメラがあれば写真を撮れる。
当たり前なのだが、本来道具にすぎないカメラがあまりにも機能が進化してしまったために
カメラの占める割合が大きすぎるような気がしている。そこに自分が入り込む余地がなく、
誰がとっても同じ写真に思えるのだ。
綺麗なものを綺麗に撮ることは当たり前で、綺麗でないものを綺麗に撮ることや、
綺麗なものを汚く撮ることの中に、写真を撮る側の存在価値があるのだと思う。
実際に汚く撮る必要はないが、その写真が記録写真でないかぎり、自分が写真を撮る意味
のようなものを1枚の写真の中に封じ込める必要があると思う。
なぜならSNS全盛のこの時代に、日々氾濫する映像の中にあって、
「自分の写真は他の写真となにが違うのか?」「どこに価値があるのか?」
「なにを表現したいのか?」を説明できることが必要であるし、撮る側の人でなく
見る側の人が、「この人の写真が好き」と感じてもらえるような何かを持ちたいと思うから。
趣味の写真から職業の写真になるにつれ、この問いに必ず向き合わねばならないだろう。
今年もクリスマスソングが流れ始めようとしている11月の終わりに
小さな最新式のカメラを買い、また更なる問いが生まれた。